関東朝鮮人大虐殺を題材にした映像作品は現代(2020年代)も制作され続けています。
日韓近代史のタッチポイントであることは間違いありません。
森達也監督の「福田村事件」も興味があります。そちらは後日ブルーレイを購入したいです。
ここまで読んで、「最近知った人だな」と思うかもしれません!
私と「関東朝鮮人大虐殺」の出会いは小学一年生の頃です。両親が教育熱心な家庭で育ったので『学研まんが 日本の歴史シリーズ』を全巻持っていました。

「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「このような流言飛語により自警団が出来た」という説明の仕方です。子ども相手に紛らわしいですがそういう表現でした。虐殺の様子は描かれていません。日本がコリアンに対しておこなった酷薄なおこないはポプラ社の『まんが朝鮮の歴史』シリーズのほうがはっきり描かれています。
2026年5月に「1923」を上映している映画館が名古屋にしかないので、見に行ってきます。
日本人という境界がどのようにして生まれるのか知る手掛かりになると思います。
普段、我々は自分達のことを「日本人です」と言いません。学校や職場でも友だちばかりではないですし、日本人同士で競い合ったり、奪い合ったりする日常があります。自分達の歴史やルーツもほとんど知りません。にもかかわらず、たとえばサッカーやバレーボールの代表試合は高視聴率です。日本人が日本人という境界を引いて結束するさい、どのような動機付けが存在するかの研究は遅延しています。
アリランセンターの勉強会に行くと、在日コリアンが大勢出席しています。質疑応答の時間によく聞かれる文言は「三・一独立運動」「治安維持法」です。自分達のルーツを知った時に、先祖が明治憲法下の日本国に侵略的支配をされていたことと、現代日本で暮らしていることとの間にジレンマを感じるのかもしれません。
私が自分のルーツを日本国にあると包み隠さないのは、ルーツというものは非常に大事なものだからです。私の先祖の墓は栃木県足利市にあります。昨年祖母が亡くなり、母が実家を相続する際、祖父の代で登記が済んでおらず、借家だったものを持ち家にする際に登記をしなかったのだろうと不動産屋に言われました。祖父が足利市に出て来る以前の家も比較的近隣にあったようでした。土着の家系だったと思われます。
変な話をすると、私はあまり日本人が好きではありません。日本人が何をしてくれたんだと思います。歳を取るにつれて人生を七転八倒すると、スポーツの国際試合も全く興味がなくなりました。それでもルーツをぽんと捨てて、どこかに旅立ってしまわないのは、丁寧に育ててくれた親族への感謝があるからです。ルーツを捨てたり、偽ったりすることは人によっては抵抗のあることです。それは日本人にもいますし、在日コリアンにもいるのです。
私は「足利市に本籍があるのか」と言われて差別されたら嫌です。
その状況で「足利市出身ですが、差別に抵抗します」というのは勇気の要ることです。ここでいう足利市が地図上から消滅していたらなおさらです。今は全く別の行政が置かれてしまっているのであれば新しい行政の市民だったと思われるだろうし、それは違うと言えば、恐らく話しは通じないでしょう。
私は精神障碍者ですけれど、差別発言を見聞きする度に思うのです。平素自分を支えてくれる人達へ感謝することに比べたら、差別者の言動なんて馬鹿馬鹿しくて相手にできません。――しかし、それは安全ありきです。本質的平等があるから、一個人の発言にやきもきしないのです。政治が公然と差別をするのは意味も目的も違います。危ういのです。

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