市民活動と政治活動の境目が難しい話

SNSで話題になった差別撤廃論者の行動

 新宿で話題のアンチレイシズム活動家たち、この日はファシズムを批判していたようです。――彼らの創意工夫が光ると言いたいところですが、コルク銃で政治家を模した的を射撃する演出には、賛否両論があるようです。
 昨年(二〇二五年)の千葉市長選挙では、共産党公認の候補者が「武器見本市」を批判していました。この事実を知っていれば、コルク銃は武器を模したものですから、演出に取り入れるのを躊躇った可能性は否定できません。――彼らは不勉強ではないのか?

 市民活動と政治活動とを区別する人としない人がいます。それは活動をする人、傍観する人、無関心な人、どのセグメントにも存在します。政治活動とは、候補者が選挙で勝ち、議会の議員になるためのあらゆる手助けを指します。その前段階的に、世論を醸成することも政治活動に含まれると思います。しかし我々は、社会問題に共感する人を一人でも多く生み出したいと思ってやる活動を、一概に政治活動とは呼べないはずです。たとえばアスベスト国家賠償訴訟の運動を、左派政党の運動だと思う人は稀です。ここで気をつけたいのは、政治団体が選挙運動の議題にしたか、否かの問題ではないということです。特定の政党が題材にした後で、同じ言論をする団体を、要は政治団体だとみなすことは避けるべきです。政治活動も、市民活動も、目的(ゴール)があっておこなっていますけれど、選挙での勝利が最終目標、ないしは中間目標にある活動に限って前者的であると述べるほうがすっきりするでしょう。

 上述の画像の活動家のチームは、共産党員も含まれているため、この手の議論は大変複雑です。党名が出ていたら政治活動なのか? 党員が参加していたら政治活動なのか? 微妙な判断になってくるはずです。

知っていることを訴えることの大切さ

 私のポリシーになります――。
 人はたまたま知らないということはありますが、たまたま知っているということはありません。知っていることはその人です。人は生まれつき輪郭を持って生まれていて、その輪郭を一生涯かけて濃くなぞります。その姿勢が人間らしいのです。
 魂の帰る場所は、自画像をもってして、死してなお人間らしいということ。そのための生前があることが、遍く与えられているべきだということです。人は、人が生まれついた輪郭を濃くなぞることを、手助けして憚らなければそれでいいのです。

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